「TOKYO POP CHRONICLE」特集 第3回
半世紀愛される東京の音楽が変えたものは?松本隆と鈴木茂が語る、“はっぴいえんど史観”への本心
2026.08.24 18:00
2026.08.24 18:00
時代を変えたという意識は全くない
──『風街ろまん』という日本語ロックの金字塔を打ち立てた後、3枚目のアルバム『HAPPY END』(1973年)はロサンゼルスでのレコーディングとなりました。
松本 当時は「動機が不純だ」なんて言われましたね(笑)。1ドル360円の時代にみんな一度はアメリカのスタジオで録音してみたいという夢があったんです。海外旅行すら気軽に行けない時代だったから。
──LA録音ではヴァン・ダイク・パークスがプロデュースに参加されたことでも知られています。
松本 ヴァン・ダイク・パークスが実際に参加したのは、「さよならアメリカ さよならニッポン」の1曲だけ。あのラストアルバムは、メンバーそれぞれのソロ作品が集まったような内容だよね。
鈴木 バンド内にはすでに、あまり説明しなくても演奏がまとまるようになっていたんです。地方にライヴに行く途中の電車の中や、楽屋で「今日はこんな感じでやろう」と一言二言交わすだけで、シャッフルやエイトビートへアレンジが即座に変わる。それくらい、すぐにまとまるバンドでした。あと、日常的に「このレコードが良い」とお互いに情報交換をしていて、例えば僕がカントリー・ギターの名手でもある歌手、ジェリー・リードのレコードを大滝さんに聴かせたら「このリフで作れないか」と言われて出来たのが「びんぼう」という曲。ただ、L.A.に着いた時点で大滝さんは直前に自身のソロアルバムを作り終えていて、出し切ってしまっていたね。
松本 本来はメンバーそれぞれが自分で歌詞を書く予定で、茂は書けないから僕が書くことになっていた。そうしたら現地について渡米翌日から録音という時に、大滝さんが「本当に悪いんだけど詞がないんだ」と言い出して(笑)。「ソロアルバムで出し切っちゃったから何とかしてくれ」って、明日から録音なのにだよ(笑)。
鈴木 じゃあ「外はいい天気」とかさ、全部現地で作ったの?
松本 そう、全部その場で急遽書いた。ボツになっていた詞があったから、それを日本から電話で送ってもらったりしてね。その裏では、大滝さんと柳田ヒロの両方に同じ歌詞を渡してしまうという事故もあって(笑)。でも、そういった場面をくぐり抜けたからこそ、後に作詞家として「明日までに書いてくれ」と言われても対応できる強さが身に付いたのかもね。人間、追い詰められると強いからさ(笑)。
──改めて振り返って、はっぴいえんどというバンドが日本のロックシーンに与えた影響をどう感じられますか。
松本 僕たち自身はよく分からない。影響を受けた人たちがそれぞれ感じることであって、自分たちが時代を変えたというお仕着せがましい意識は全くないんです。僕らは先駆者というよりも、軍隊で言えば一番前線で死んでもいい先遣隊のような存在だったから(笑)。
鈴木 自分たちの本心から出る言葉とメロディで歌う日本語のロックバンドが周りにいなかったんですよ。何をやっても最初になれたという意味ではラッキーでした。当時はキャロルやモップスといった同世代のバンドも間違いなくはっぴいえんどを意識していたと思います。
松本 モップスなんて“アンチはっぴいえんど”の筆頭だったのに、ステージを観たら「月光仮面」を日本語で歌っていて「なんだよ!」と思いましたけどね(笑)。はっぴいえんど解散後、僕の戦場は歌謡曲の世界へ移って、阿久悠さんという巨人と戦うことになった。「はっぴいえんど史観」っていうこともSNSで話題になったけれど、僕らはやりたいことをやっていただけなんだよね。

──1973年9月21日にはっぴいえんどのラストライヴ「CITY – LAST TIME AROUND」では、吉田美奈子さんや南佳孝さんといった次世代のアーティストが参加していました。
松本 あれは(マネージャーの)石浦信三の功績ですね。「ただ解散するのではなく、各メンバーが離れた場所で新たな芽が出るような解散にしよう」と提案してくれたんです。それでメンバーがそれぞれプロデューサーとなり、僕は南佳孝のデビューアルバム『摩天楼のヒロイン』を手掛けました。あの解散ライヴの客席にいた若い人たちが、後に音楽業界のコア層となって僕たちの活動を支えてくれるようになったんです。
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