「TOKYO POP CHRONICLE」特集 第2回
「世界への最短距離は日本語だった」松本隆×鈴木茂が振り返る、はっぴいえんどのはじまり
2026.08.23 12:00
2026.08.23 12:00
細野さんはそうやって人の人生を左右するから(笑)
──そこから細野さんたちとの交流が深まっていったわけですね。
鈴木 僕は細野さんの家にレコードを聴かせてもらいによく行っていて、そこで松本さんや大滝(詠一)さんを紹介してもらいました。細野さんと林くんと僕の3人で、なぜか細野さんのところに依頼が来るパーティーなどの演奏をやっていたんです。「今度、何月何日にどこどこに出るから」って呼ばれてね。面白かったのは、慶應のお医者さんのダンスパーティーでやった演奏。50代、60代のカップルが壁沿いに座っているような社交ダンスの会場なんですよ。女性は白いドレスなんかを着ていて。それで、僕たちはフランク・ザッパがマザーズ・オブ・インヴェンション名義で発表した「トラブル・エヴリィ・デイ」という激しいロックを演奏したんです。そうしたら一番年配のカップルが最初に踊り始めて、そこからみんなが踊り出して……何とも言えない景色でしたね(笑)。とにかくそんなことをよくやっていましたね。

──そこから「はっぴいえんど」の結成へはどうつながっていくのですか。
鈴木 家でぼーっとしていた時に細野さんから電話があって、「ちょっとギターを持ってきてくれ」と言われて、松本さんの部屋に行ったんですよ。でもそのとき、大滝(詠一)さんはいなかったんだけど。それで、松本さんのベッドの上に細野さんが座っていて、生ギターで「12月の雨の日」を弾き始めて、「これにギターを入れてくれ」と言われたんです。そこでイントロやソロを考えて弾いてみたら、なんだか気に入られてね。それが、はっぴいえんどの始まりですね。最初は「ヴァレンタイン・ブルー」という名前で僕以外の3人が活動していたところに僕が入って、1、2回ライヴをやったあたりから、名前が「はっぴいえんど」に変わりました。
──松本さんと茂さんの最初の出会いは、すでにあったわけですよね。
鈴木 その前に松本さんと細野さんがやっていた「エイプリル・フール」のライヴを観に行った時ですね。小坂忠さんがヴォーカルでした。六本木のディスコ「スピード」か、渋谷の「ハッピー・バレー」のどちらかだったと思うんだけど……。僕たちアマチュアからしたらエイプリル・フールは憧れの存在で、レッド・ツェッペリンの曲などを演奏していてすごくかっこよかった。
──松本さんは茂さんの存在をいつ頃に認識されたのですか。
松本 細野さんがずっと「ギターの天才がいるからあいつを入れる」と言っていたんです。「でも、彼は大学に行かないといけないんじゃないの?」と聞いたら「行かせない」って。細野さんはそうやって、人の人生を左右するから(笑)。
鈴木 ちょうど進路を決めなきゃいけないという、まずい時期に誘われたんだよね(笑)。
松本 分かりやすく言うと、僕は慶應の音楽サークルで、細野さんや茂が参加していた「PEEP」は立教。東京のロック同好会同士が慶應、立教、青山学院あたりで固まっていたんです。友だちから「立教にベースの天才がいるらしい」とノートの切れ端に細野さんの電話番号を書いて渡されて、恐る恐る電話したら「原宿で会おう」と言われて。会ったら開口一番「君の髪は短すぎる」って(笑)。高校を出たばかりだからそんなに伸ばせるわけがないよ(笑)。

──エイプリル・フール時代は、具体的にどのような活動をされていたのですか。
松本 新宿の花園神社の近くに「パニック」というディスコがあって、毎晩そこで演奏していました。花園神社は唐十郎さんの赤テントの本拠地で、パニックの斜め隣には寺山修司さんの「天井桟敷」の事務所が入っていて、いわば当時の最先端文化の中にいたわけですよ。そのディスコで毎晩のように演奏していたから、技術的にはまったく問題なくって、レッド・ツェッペリンのコピーなんかもすぐに出来たんです。小坂忠さんが「ぶっつけ本番でやろう」と言って、テレビ朝日の番組で演奏して評判になりました。まだツェッペリンがデビューして1年経たないくらいの頃ですよ。だからうまいバンドだったんだけど、すぐ解散しちゃった。
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