2022.07.19 07:00
この世界のために私は何を言葉にすればいいんだろう?
──「泥棒」や「SUN」に比べればメロディアスでリラックスした感じが少し戻ってきたとはいえ、2007年6月の「Golden Green」、2009年7月の「ATTA」と、まだそうしたモードは続いていきました。因みに「ATTA」では、鈴木正人さんだけでなく、青柳拓次さん、栗原務さんと、LITTLE CREATURESの3人が作詞・作曲・編曲に関わっていますね。
LITTLE CREATURESとがっつり一緒に作りたいと思ったので。
──さらに2016年の「JaPo」では、青柳拓次さんが全曲をプロデュース。「ATTA」から7年の間には沖縄本島北部の山原(やんばる)への移住もありました。
そうですね。青柳くんも沖縄移住組で、ご近所に暮らしていて。でも山原暮らしなんて想像もしていなかった頃から青柳くんともっと仕事したいと思っていたんです。当初は彼のソロ作品(2007年の「たであい」、2010年の「まわし飲み」)の傾向に近いような、和をテーマにした可愛らしい小唄集みたいなものをやりたいと思っていた。その話は彼に伝えていて、『あいしらい』という歌のテーマのことも話していました。ところがその半年後に3.11(東日本大震災)があって、原発事故が起きた。そのショックでアルバム制作どころじゃなくなっちゃって。何ひとつ言葉が出てこないんですよ。和がテーマとか、もうそれどころじゃない。この世界のために私は何をして何を言葉にすればいいんだろう?と。ましてや山原の大自然に翻弄されていたときでもあったので。
──山原への移住は3.11が直接的な引き金だったんですか?
はい。翌日に出ましたから。3.12に。経済の集中したところから脱したところで生きていけないかと、丸ごと生活を変えてみたんです。チャレンジだったし、学ぶべきことが本当にいっぱいありました。ただ、母親から離れることになったし、田畑を耕して、子供も見てということで、ぜいぜい言いながら暮らしていて。イメージだけは先行するものの、新しい言葉を見つける方法が見えなかった。青柳くんが近くにいて、デモもいただいているのに、何ひとつ言葉が降りてこなかったんです。3年半、そのままの状態でした。
──「JaPo」が出たのは2016年5月。その前の年にはカナダの離島に移住されました。
結局、表現したいテーマはあったものの、沖縄にいたときは歌詞もアレンジもまったく進まなくて。それがカナダに移ったら、沖縄での3年半の思いがどばーっと出てきた。離れた途端に言葉もアレンジも出てきて一気に進んだんです。
──沖縄での暮らしと思いを頭のなかで整理して、アルバムに反映させた。
暮らしというよりは、愛ってなんなんだろうってことに全面的に向きあいたくなったんです。『あいしらい』という曲は息子への思いだったりするんですよ。虹郎くんが表現者になっていったときだったので、私もひとりの表現者として“あいしらいしている”(*あいしらい=能・狂言で役者が互いに相手の演技に応じて動くこと)ということを書いたんです。ただ、そういう曲がありながら、“自分がなければ宇宙もない”といったような精神世界にも入っていますね。等身大の自分の生活とは真逆の表現をしている。でも私としてはものすごく達成感があった。「一生歌える曲が今生まれている」という実感を持てました。ここまで長かったなぁとも思ったし。
──「JaPo」は沖縄に住んでからの表現の集大成というところもあるのでしょうけど、「泥棒」から始まった内観と祈りの長い旅の到達点という印象もあります。
まったくその通りだと思います。到達感がありました。
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