来日したグラスゴーの天才ビートメーカーにインタビュー
ハドソン・モホークが語る音楽ルーツ、ターンテーブリストからプロデューサーへの軌跡
2022.11.25 18:30
2022.11.25 18:30
世界中に同志が点在している状況がイケてる時代だった
──何年に〈Warp Records〉と契約したのですか?
たぶん、2008年か2009年だよ。
──それは音楽活動の初期から契約していたことになりますよね?
はじめてリリースしたのが2005年? とかで、契約したときが19歳ぐらいだったと思う。今では19歳で契約するとかは普通なことだけどね。
──当時はInstagramとかが無いなか、どのようにして音楽を届けていたのですか? Myspaceなどでしょうか?
そう! Myspaceは僕たちのシーンで大きな要素だったし、Myspaceでいろんな人とつながったよ。Myspaceでフライング・ロータスを知ったし、ルニスと知り合ったのもそうだ。Myspaceがなかったら出会わなかった人たちは多いだろう。
──今考えると、あの時代は良い時代だったように感じます。ただの良い思い出かもしれませんが(笑)。
そうだね(笑)。僕もよくそんなことを考えるよ。本当に当時が良かったのか、単に良い思い出がたくさんあるだけなのか。でも個人的に素晴らしいと思ったのが、世界中の全く違う場所に点在している人たちが、DAWとネットを介してひとつの音楽シーンを作っているということだった。それがとてもクールに思えた。今では、それが一周回って、またローカルで小さくイケてるシーンを作ることがクールになったように思える。
当時は、世界に点在しているという状態が新しかったから、違う国のミュージシャンたちがネットを通して知り合い、お互いを招待してライブをしたりするのがクールだった。前にグラスゴーで、「自分の街に留まってレプリゼントしようと思わなかったのですか?」って聞かれたけど、世界中に同志が点在している状況が新しくて、イケてるという時代に育ったから、あまりそういう意識がなかった。
──今では、なんというか、グローバルにローカルなシーンを探す人が増えたように思えます。世界中で起こっている熱いローカルシーンを調べたり。
そうだね。今の20代ぐらいの人たちにとっては、ひとつの音楽シーンが世界中に点在しているのは新しいことではなく、当たり前だからそこまで面白くないと感じるんだろうね。
──初期の『3Pac』ミックステープなどはヒップホップの要素が入った、チョップされたテクノとかエレクトロのようなスタイルで、ソウルからの影響も聞くことができます。あの時代に、他に影響を受けたプロデューサーはいますか?
マッドリブとかかな。あともちろんJ・ディラとかJust Blazeとかだな。Just Blazeのビートはアンダーグラウンド・ヒップホップにも聞こえるけど、かなり大きなヒット曲だったりもする。アンダーグラウンド・ヒップホップのようなサウンドなのに、大衆にヒットすることが興味深かった。
──特にジェイ・Zとか〈ロッカフェラ・レコード〉との曲はそう感じます。
本当に100パーセントそう! あとは2000年代前半に〈Stones Throw〉がやっていたことは全部好きだった。それ以外だと2000年代前半のFour Tetとかかな。Caribouのサンプルがたくさんレイヤーされている感じも好きだった。多分DJ Shadowの潮流でもあるけど、もう少し複雑で前進したものに影響された。
後はテクノ側からはUnderground Resistanceとか、デトロイトから出てきた音楽とかかな。ダンス曲なのにアグレッシブなだけではなく、素晴らしいコードが使われていた。
──コード感の話題で思ったのですが、音楽を作る上で楽器を学んだりしましたか?
学校でドラムはちょっとだけやってたけど、音楽は全く学んでいない。コードを押さえたりはできるけど、演奏できるわけじゃない。もちろん新しい手法やアプローチとかを試したりはするけど。
──カニエ・ウェストと仕事をはじめたのはいつ頃ですか?
2010年かな? 『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』の後だった。最初に連絡くれたのはヴァージル・アブローだった。ヴァージルから「スタジオにきて君の音楽を流してくれないか」って言われたんだ。
次のページ