2022.07.19 07:00
ザ・ショーというあり方への反感があった
──2004年3月には5thアルバム「SUN」をリリース。鈴木正人さんを除いて、レコーディングメンバーがそれまでとはガラっと変わりました。
内橋(和久)くんの存在が大きいですね。その次のアルバム「Breathe」で丸ごと内橋くんにお願いすることになるんですけど、「SUN」のときからもうバンマス兼ギタープレイヤーで参加してもらっていて。「泥棒」のあとのツアーは、「空の小屋」というライヴ盤でわかるように自分のアート心を120%満たすことができたんですが、毎回同じ楽曲をリピートしていかなくてはいけないというストレスに向き合ってもいた頃で。だから『情熱』も『水色』もセットに入れなかった。みんなが聴きたがっているのはわかるけど、歌えなかったんですよ。そこをどうしていけばいいのかと悩んでいたときに、インプロヴィゼーションの世界がキーになった。即興の名手としてヨーロッパでも活躍していた内橋くんの影響なんです。
──インプロヴィゼーションを取り入れることで何がどう変わったんですか?歌い方?
というよりは、ライヴの根本的なあり方ですね。毎回同じアレンジでこの曲もあの曲もお届けしますという、ザ・ショーというあり方に対しての反感があった。そこでどうしたら新しいところに行けるかと模索していたときに、即興音楽のトライアルが何かしらの道筋になるんじゃないかと思ったんです。だから前奏だったり間奏だったり後奏だったりにそういう要素を入れてみたし、それに対応できるミュージシャンを選んでいました。
──ご自身も即興に対応しながら歌えるという自信はあったんですか?
いや、できると思わなかったです。最初の即興の体験としては、当時ザ・スリップというボストンのジャム・バンドがあって、今はザ・バール・ブラザースという名前で活動していますけど、当時は渋谷界隈でけっこう人気があって。2002年にフェスで彼らと共演したのがきっかけで、次に彼らの来日公演があったときに1曲入って歌ってほしいと言われたんです。ところが必死でやったものの、演奏に歌がついていけてなくて、“ああ、恥ずかしいものを見せてしまった。私のこの数年間はなんだったんだ?なんにもできないじゃないか”と落ち込んで。2セット目は、私は黙って観ていたんですね。そうしたら、今はもう亡くなられた小野さんというベテランのPAの方が私を見つけて、「キミ、さっきステージに出ていた子だよね?」と。「あんなものを見せて本当にすみません」とか、なんじゃかんじゃと言い訳したら、その方が「いや、そんなことじゃなくて、要は裸になってどれだけ自分を曝け出せるかどうかだけだから。思い切ってやればいいだけだよ」と言ってくださって、もう涙がぶわーっと溢れ出てきちゃって。そうか、私は曝け出せていないんだと衝撃を受けた。曝け出すってなんなのか、今でもわかりませんけど、そのときから意識が変わって歌うようになったのは間違いないです。
──歌唱法そのものというよりは、歌うことの意識の持ち方が変化した。
うん。「祈りとは?」とか、声のピュアネスについてとか、見えないところに歌はどう届くかとか、そういうことを考えて、そこを目指して歌うようになった。だからシャーマニックって言われていたのは知っていたけど、いつも裸足で歌っていたし、「la」というライヴアルバムに収録された、一切モニターなしでホールに返る音だけを聴いて歌うという今考えたらとんでもないライヴをやってみたりもしたし。
──確かにとんでもないチャレンジですね。
本当に。で、「SUN」を出した年に日比谷野音でライヴをやったんですけど、それがもう大雨は降るわ、雷は落ちるわで。でも“祈りを捧げなきゃ”なんて気持ちで、ずぶ濡れになって歌って。その結果、マイクを持つほうの肩が冷えと緊張で亜脱臼みたいになっちゃったんですよ。で、ツアーが終わって、身体は東洋医学的にいう「虚」の状態に。それから歌っていくための身体の見直しを始めて、ヨガのクラスに通うようになった。まずは息を整えることから思い出さなきゃと思って、それで次のアルバムのタイトルが「Breathe」。呼吸をするということで。またその時期は自我のない世界に強い憧れを持っていて、「あなた」がどうとか「私」がどうとかといったことは一切歌いたくなかったんですね。もっと普遍的なものや森羅万象的な世界を歌いたかった。そういうモードがしばらく続いて。
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