2022.07.11 07:00
詞には少し自信があった
──1995年6月、UAさんは作曲・編曲に藤原ヒロシさんと朝本浩文さんを迎えたシングル『HORIZON』でデビュー。ヒロシさん、朝本さん、それに大沢伸一さん。そうしたクラブミュージックに精通したクリエイターの方々と一緒に新しい時代を切り開いていった印象があります。
サブカル的なものがメインストリームにグッと入り込んでいくような感じでしたよね。自分では何の意識もなかったんですけど、今思うとそうだったなと。
──90年代半ばからの数年間と言えば、日本の音楽業界はまさしくバブル。CDがバカみたいに売れる時代でした。
その時期に私の「11」(96年11月)も出て、乗っかっちゃった感じでした。ありがたいことに(笑)
──UAさん自身は、CDを売るんだ、ヒットを出すんだみたいな意識は……
まぁ~ったくなくて。だから、しばらく事態がつかめずにいましたよ。なんだろう、これは?と。
──混乱した。
混乱には至らなかったけど、私生活のほうにも強くフォーカスがあって、そっちも必死だったので、仕事ばっかりしているという感じでもなかった。妊娠もしていたのでね。妊娠しながら「11」を作っていたので、肉体的になかなか大変でしたけど。
──日本の音楽業界やトレンドがどうのなんてことは眼中になく。
そういう視点はなかったし、興味もまったくなかった。もともとサブカル的なものを好む性質があったし、アンダーグラウンド・フィルムをたくさん観てるようなタイプだったから。
──日本の音楽シーンがどうとか知ったこっちゃない、私は私の道を行くんだと。
いやいや、知ったこっちゃないなんて偉そうなことではないんですけど、私がちゃんと音楽を始めたのが、UAと名付けてからなので、そんな大きな視野なんて持ちようがなかった。だって、CDってどうやって出るの? 歌詞ってどうやって書くの? みたいに、全てが始まったばかりだったから。
──歌詞もデビュー前には書いたことがなかったんですよね。
デビューが決まって、藤原ヒロシさんから曲がきたときに、「詞は私が書きます」と言ったんです。もともと言葉が好きで、本を読むのが大好きだったし、映像を学んでいるときも言葉の断片をスケッチブックに集めていたので、少し自信があったんですよ。
──初期の曲のなかで、自分は3rdシングルの『太陽手に月は心の両手に』がとても好きで。今でもライブを盛り上げる要の曲になっていますよね。先頃の「GREENROOM FESTIVAL」でも1曲目に歌われていましたし。
そうですね。ジャクソン5かってくらいキーが高い曲なので、さすがに今は下げて歌っていますけど(笑)。この曲、当時は関西で携帯電話の会社のタイアップがついたので、特に大阪での人気が高かったんですよ。歌詞は太宰治の『走れメロス』をイメージしながら書きました。それの女性版というか。
──そして96年6月の4thシングル『情熱』が大ヒット。UAさんの代表曲として知られる曲になりました。当時は衝撃的だったし、画期的な曲だったと思うんです。それまで日本のR&B/ポップになかった独特のグルーヴと高揚感があって。
あんまり音を盛ってないですからね。J-ポップって、どんどん華美にしていく傾向があるじゃないですか。
──特にあの時代のものはそうでしたね。
私はできるだけそれを避けたいと思って。J-ポップに対してそうしたわけではなく、自分の志向としてそうさせてもらいました。実は『情熱』には3つのテイクがあったんですよ。もっとシンプルで隙間を活かした激シブなものと、もっとホーンセクションで煽るような派手なものと、その真ん中と。私は激シブなテイクがいいと言って、ディレクターは派手なのがいいと言っていて、折衷案としてその間をとることになったんです。朝本さんも納得して。
──因みにMISIAさんがデビューしたのが98年、SUGARSOULのメジャーデビューも98年、birdさんのデビューが99年。そのようにR&Bを歌う女性シンガーが続けてデビューしていた頃で、あまり使いたくない言葉ではありますけど、ディーバ系などと言われたりもしていました。UAさんの『情熱』と次の『リズム』は96年なので少し早かったわけですが、そういったブームについて何か思うところはありました?
いや、特には。私は『リズム』まで出したところで、サウンドを一変させてしまったので。『リズム』の次のシングルが『雲がちぎれる時』ですからね。歌い上げ系みたいに思われるのも、なんかこう……。もともと天邪鬼的な性質があったからだと思うんですけど、私は属するのが苦手で。何かに属してしまうことに、ものすごく違和感をもってしまうんです。だから、あえて避けていたかなぁ。
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