2023.09.21 19:00
私は中学生の時に山下敦弘監督作『リンダ リンダ リンダ』(2005)を見て、高校で軽音楽部に入部する事を決めた。
文化祭直前、ボーカルが脱退し路頭に迷うガールズバンド(恵、響子、望)に韓国からの留学生(ソン)が飛び入りで参加して後夜祭出場を目指すという、一見突拍子も無いストーリーのこの作品が自分の中で青春映画の金字塔となったのは、多くの人が抱いているであろう青春というものへの晴れやかなコンプレックスを見事に奏でていたからであろう。
この映画は、いわゆる“青春映画”と呼ばれる作品群の中でも異質な雰囲気を放っている。
「韓国人留学生のソン」という存在そのものがその根元になっている事は確かなのだが、オフビートな世界観に臆する事なく見る者を飽きさせないのは、画面内に映し出されるもの全てが絶妙なバランスで調和し合っているからだろう。
サントラ映画の類である本作だが、聞かせる事よりも、見せる画面作りへの妥協を一切感じさせないのだ。
それ故、画面内の奥行きを生かした人物の配置や動線には目を見張るものがある。
例えば、「ハイ!」と返事だけはいいのが最後、意味も分からず勢いだけでボーカル入りしたソンをカメラはメンバーの後頭部越しに小さく小さく捉える。
もう面白い。大好きなショットだ。
さらに、この映画のカメラはどんな小さな動きも、ダイナミックな運動も、同じ温度感で映し出す。
メンバーが『リンダ リンダ』のエネルギーに共鳴し部室で暴れるシーンや、一番の見どころである最後の後夜祭のシーンでも、最高に盛り上がっている場面でこそ山下はカメラを固定する。
音楽に夢中な本人たちをよそに、カメラの眼はいつだって冷静なのだ。
カメラは一貫して彼女たちを見守る視線が常に存在しているという事をフレーミングによって気付かせる事に徹するだけである。
それは、もう戻らないあの青春の煌めきを懐かしむ我々の眼差しそのものだ。
この映画は、往々にして鎮座する、誰もが主人公と言わんばかりの通俗的である種夢見がちな青春映画とは違う。
だから観客は彼女たち以外の登場人物の視線を通して映画と同一化する他ない。
それは時に、深夜窓から部室をこっそりとのぞき込む顧問の先生の視線だったり、ステージで演奏する彼らの横顔を舞台袖から見つめる部員の視線だったり。
我々はそんな彼らの視線を通し、過保護なまでに優しく彼女たちを見守るだけで、映画は我々を舞台に上げはしない。
我々はもうあの舞台に立つ事は出来ないのだ。
でも、その距離の中で我々は青春の刹那を感じ、強く思う。
この映画の主役は絶対的に彼女たちなのだと。
そんなフィクスショットを多用した作中で、数少ない移動ショットには自然と胸が躍る。
河川敷やスーパーマーケットでの印象的な移動ショットでは、彼女たちが同じ方向を向いて歩いている。
映画の冒頭では、長回しの移動ショットを巧みに利用し、ドラムの響子を中心に登場人物たちの交友関係が流れるように描かれる。
だからこそ、彼女を追って同じ速度で動き出すカメラによって、反対側に歩き出す者との不和は強調される。
何を隠そう、端っこの教室で「日韓交流文化展示会」の準備をしているソンを見つけ最初に立ち止まったのは、クラスの文化祭準備に夢中な彼らではなく、長回しのカメラであった。
そんな彼らと、彼ら以外の全てとが、最後のライブのシーンにおいてようやく一つになってゆく。
前だけ向いてガムシャラに進む彼女たちの横顔を、やさしい視線のモンタージュが繋いでゆく。
彼女たちがそんな多くの視線に見守られていた事を知るのは、きっともっと後の事なのだろう。
もしくは知らないままなのかもしれない。
知らないままでも良いのかもしれない。
印象的な台詞がある。
ボーカルが不在の中、無理してバンドをやる意味があるのか問う友人に対し「別に意味なんかないよ」と放つ恵。
これこそ彼女たちの青春の真理ではないだろうか。
嫌々やらされているわけでもなければ、大会出場とかいう大きな夢もない。
何も背負っていないからこそ溢れ出る力強いエネルギーは、練習とは打って変わってディストーションの効いたギターに乗って体育館に響く。
あの時、ソンが勝手に命名したバンド名「パーランマウム」(韓国語で“青い心”=BLUE HEARTS)の意味を理解した人は会場に一人もいなかっただろう。
それでも彼らが一つになれたのなら、最初から日韓交流文化展示会など必要なかったのかもしれない。
結局のところ、ソンにとってもそんなものは二の次どころか興味がなかったようだ。
宣戦布告ともとれるライブ告知、呆然と立ち尽くす先生の後ろ姿を映して幕切れするラストの爽快感、これぞ凛々しい“青春”の勢いそのものである。
『リンダ リンダ』を歌い終わり、二曲目の『終わらない歌』をバックに薄暗い教室や、雨で濡れた校庭のイメージが重ねられる。
爽やかな青春とは真逆なイメージが予感させるものは、映画には描かれない彼らのその後のようにも思える。
あんなに囃し立てられていたのも夢の跡、ライブが終わったら彼らはいつもの生活に戻る。
登場人物達の恋の行方もままならないのだろう。
それに、彼女たちが卒業してもずっと仲良し4人組のままでいるような未来も見えない。
でも、高校生って、青春って、そんなものなのだ。
私達が抱くキラキラとした青春のイメージは、大人になって思い返す美化された幻想に近い。
あの時の私たちはキラキラとなんてしていなくて、むしろ、ドブネズミみたいに泥だらけで、カッコ悪い毎日を生きていたはずだ。
でも、そんな日々の中に本当の青春はあって、我々はそれをもう一度覗き見たいと望んでいる。
最初はボーカルなんて無理だと言っていたソンだが、『リンダ リンダ』を聴いて勝手に涙が出てきたなんて経験、それだけで他の何にも代えがたい立派な青春ではないか。
そんな何気ない瞬間の青春を、観客はカメラを通して目撃する。
我々の視線が、紛れも無いあの頃の青春を見守り続けるのだ。
ずぶ濡れで立つステージ。
奏でるのはカタコトブルーハーツ。
ガムシャラで不器用だけど誰よりもやさしい。
そんな彼女たちの歌は終わらない。
寄り道ばかりの日々に、誰しもあの頃の自分を重ねる事だろう。
だからこそ我々は彼女たちの姿を見て、心の底からガンバレ!って言いたくなるのだ。
いや、ガンバレって言ってやる。
聞こえるかい?ガンバレ!!