2023.02.13 19:00
皆さまこんにちは、宍戸里帆です!
第2回目となる今回は、この連載のタイトルである“Viddy well”の由来に迫るものになります。
“Viddy”とは、『時計じかけのオレンジ』の作者で言語学者でもあったアンソニー・バージェスが生み出した、「見る」事を意味する造語です。
この作品の主人公アレックスは、我々に向かってこう言い放ちます。
“Viddy well, little brother. Viddy well.”
「見るんだ、兄弟。よく見てろ。」
この連載は、前々から私が興味を抱いている「みる」という営みの本質を、映画を通じて様々な視点から解き明かしていきたいという思いから始まりました。
何故なら「映画」とは、様々なレベルにおいて「みる」という行為に最も馴染み深い装置であると同時に、「みられる」事によってその存在を堅持し続けてきたからです。
今回は、そんな「みる/みられる」という関係性の構築が絶対的な条件となる映画において、あえて「みえない」という事について考えてみたい。
それは単に、前に座っている人の頭でスクリーンが見えないとか、画質が荒くて人物の表情が見えないとか、我々の鑑賞体験によく付き纏う類の問題では無く、文字通りの意味で、映画が「見えない」という事だ。
初めて話す事なのだが、数年前、私は視覚障がいを持つ人々に映画の魅力を伝える活動をしている団体で何度かボランティアをした経験がある。
ある日、盲導犬を連れて映画館に入る人を見て以来、見えない彼らがなぜ映画を見に行くのか、その理由が気になり高校の夏休みを利用してボランティアに参加してみたのだ。
初めて彼らと映画館に行く日。
最初に現れたのは、白くて頭の良さそうな盲導犬を連れた女性だった。
他の参加者も続々と集まり、見える者と見えない者とがそれぞれペアになり映画館へと向かう。
私のバディはあの一番乗りの女性だった。
「犬にはなるべく視線をやらないでね。私以外の人が撫でたり、名前を呼ぶのもダメなの。自分の仕事に集中出来なくなっちゃうから。」
その瞬間から私は犬の目を見ないようにした。
犬も私の事を見ることはなく、飼い主の方だけをじっと見つめ、合図を待つ。
サインが出ると、犬は真っ直ぐ前を見つめ彼女を誘導し始めた。
歩き始めた彼女がどこを見ているのか、私には分からなかった。
私はそんな彼女をずっと見ていた。
映画館への道中、自己紹介代わりに好きな映画の話をした。
彼女は本当にたくさんの映画を見てきたようだ。
そして彼女はスタンリー・キューブリックの作る画面の異質さについて話し始めた。
その瞬間、私は奇妙な違和感に包まれる。
何故だ。
何故、見えないはずのあなたがシンメトリーの恐怖を知っているのだ。
馬鹿にしているとか、上から物言いたい訳じゃない。
ただ単純に、何故なのかが私には分からなかった。
私の何故の理由は、映画が始まるとすぐに判明した。
彼らは映画を見る際に「イヤホンガイド」と呼ばれる同時解説を利用し、“今画面には何が映っているのか” という情報をリアルタイムで解説者から伝達してもらっていたのだ。
そういえば私も歌舞伎の観劇に行った際、イヤホンガイドを使った事を思い出した。
その日、私が彼らの目となるように、考え、発言し、行動したつもりだったが、私の視線は目としての機能を果たせていたのだろうか。
当たり前の事だが、相変わらず彼らと視線は交わらなかった。
それどころか、犬とすら目が合わさらない。
そんな交わらない視線の中で、確実に、おぞましい程の真実味を帯びて会話が進むこの感覚、まるで小津安二郎の映画を見ている時と同じだ。
真正面に固定された田中絹代は誰を見ているのか。
画面の向こうの原節子は誰に話しかけているのか。
“みえない”彼らの視線の先には一体何があるのか。
考えるまでもない事だった。
それは紛れも無く、私だった。
彼らはきっと、ずっと、映画館の暗闇の中にいて、そんな彼らの暗闇に、光の手を差し伸べるものはいくらだってあった。
盲導犬も、イヤホンガイドも、そしてこの私も。
だがそれ以前に、彼らは確かにこの世界をみていた。
私が彼らの目の代わりになんてならなくとも、瞼の裏に感じる微かな光の機微を、私や映画から放たれ続ける熱烈な視線を、何一つ見逃していなかった。
彼らこそ、映画の暗闇に最も近いところにいる存在だった。
このような経験を経て分かったのは、彼らが映画を見る理由は私たちと何ら変わらないという事、そして彼らは確かに映画を「みている」という事だった。
だが、ここで決定的に揺らいでしまうは映画側の在り方だろう。
当たり前のように観客からの視線を享受し、スクリーン越しにこちらを見つめ返す。
そうやって、目に映るものだけを信じる事でしか存在する術を知らなかった映画なのだから、まさか、見られる為に存在しているこの私を、“見ていない者”がそこにいるとは微塵も思わずに。
永遠の死と引き換えに、刹那なる生を受けたあの日から、現在、そしてまだ見ぬ未来の夥しい数の視線に晒され続ける宿命にある映画が、視線を持たざる観客と対峙した時。
己の闇より深い暗闇を知る者が向けるその透明なまなざしの中に、自らの“存在の耐えられない軽さ”を再発見するだろう。
そんな瞬間までも、私たちで見尽くしてやろう。
今目の前で起きている出来事、そこにあるものは何なのか、何が私をみつめているのか、その全てを見逃さないように、その眼、よく見開いて。
スクリーンを通じ、自分を通じ、この世界に目を見張る。
過去の映画も未来の映画も、今を生きる我々からの視線を渇望し、あの賢明な犬のごとく、映画館の暗闇の中で今日も主を待っているのだ。
だから兄弟たちよ、今から私と “Viddy well” でいこう。
おまけ
第2回目も読んでくださりありがとうございました!
私がキューブリックの『時計じかけのオレンジ』を初めて見たのは中学2年生の時。あまりの衝撃にアンソニー・バージェスの原作も読み、それを”善と悪”というテーマで夏休みの読書感想文にして提出したら、「文章は良いんだけど本の選定が中学生向きでは無い」という先生の判断で、私の感想文はコンクールへの応募を許されませんでした。
その数年後、ほとんど同じような内容の話が「ビブリア古書堂の事件手帖」の第5話で描かれていた事を知り、鬱屈とした気持ちが少しだけ発散された記憶があります💭
その時の読書感想文は自宅にコピーして保存してあるのでまた読み返してみようかな。
そしてコロナ禍になってから行けなくなってしまったボランティア、もう一度足を運んでみようと考えています。