2022.07.11 07:00
初めてお客さんの前で生演奏で気持ちよく歌えたとき
──美大を卒業する前には、メキシコに行かれたんですよね。
そうです。卒業旅行で海外に行ってみたいと思って、まずニューヨーク、それからニューメキシコ州のサンタフェへ。ジョージア・オキーフの影響なのか、ファッションもインテリアも流行っていたんですよ。それでメキシコで買ったトウモロコシをいっぱい首にぶらさげて日本に帰ってきたら、もう周りのみんなの就職が決まっていたので焦って。私は母子家庭で育って母に美大まで行かせてもらった手前、就職しないというのは心情的にありえなかった。なので慌てて探しだしたところ、バイトで雑誌のモデルをやっていたときに知り合ったスタイリストさんの紹介で、グラフィック・デザインの会社に就職できることになったんです。そこでは先輩方に「キミ、面白いねえ」なんて可愛がってもらって、事務所のなかでDJしたりもしていたんですけど、1ヵ月くらい経ったときに社長に呼ばれて、「明日から来なくていいよ」と。「え、どうしてですか?」って訊いたら「風紀を乱すから」と言われて。
──それで会社をやめることになり、これからどうしようかと。
そう。ただそのとき、学校の卒業制作で取り組んだ8ミリフィルムの制作のことが強く胸に残っていて、もっと映像の勉強を学校でしたかったという後悔もあったんです。なので映像の道に進みたいと考えるようになって、イメージフォーラムが映像のスクールをやっていることを知り、そこへ通おうと。でも家を出て東京に住むにしてもお金がいるので、短期集中で貯めなきゃとアルバイトニュースで北新地のジャズの流れるお店で歌手を募集している項目を見つけて。時給もほかの仕事よりよかったから、面接を受けに行ったんです。で、ちょうどそのときに、すごくセンスのいい女性が入ってきて、ヴァイオリンを弾き始めた。長髪で、キレイで、奔放そうな女性でね。それがHONZI。
──運命的なものを感じますね。
うん。それで歌手はどこにいるのかなと思っていたら、そこで働いている人はみんな入れ代わり立ち代わり歌うんですね。それでだんだん私も歌いたくなって、アレサの『チェイン・オブ・フールズ』を歌いたいと申し出たら、ママを始めみんなに「そんな難しい曲を歌えるはずがない」と言われ、代わりに『グルーヴィン』を与えられて、それを1週間練習したんですけど。
──ヤング・ラスカルズの。
アレサもカヴァーしていたからね。でも、いざバンドの前に立ったものの、どこから歌に入ればいいのかわからない状態で、仁王立ちしてしまった。恥ずかしくて楽屋で泣いて、「もう歌わない!」と言ったんですけど、若いって素晴らしいもので(笑)、1週間したら『チェイン・オブ・フールズ』じゃなかったからうまくいかなかったんだと思えて。みんなの反対を押し切って、挑戦したら、全部歌えたんですよ。「やったー!」と思ってね。初めてお客さんの前で生演奏で気持ちよく歌えたのが、そのときなんです。
──映像の勉強のほうはどうなったんですか?
1年間東京でいろいろやってみたんですけど、特に才能を認められるわけではなく。それを仕事にするのはやっぱり難しいのかなと思って、一旦大阪に戻ったんです。あ、そのときにHONZIと一緒に暮らしたんですよね。
──「大阪に戻ってお店でスリー・ディグリーズの曲を歌っているときに、当時、新しく音楽事務所(アロハ・プロダクションズ)を作ろうとしていた男性から〈やってみないか〉と声をかけられ、そこからデビューに至った」と、2019年の日本橋三井ホールのライブで話していましたよね。
そうそう。その方はライブツアーで大阪に来られていて、打ち上げの席にも呼んでくださった。そこでツアーのミュージシャンと出会って、いろいろ話したんです。で、後日そのミュージシャンから「東京に来ることがあったら話をしたいと、あの人が言ってたよ」って聞いて、ちょうど池袋であったフランチェスコ・クレメンテの大規模な個展に行くつもりだったので、そこで話を伺うことになったんです。そこからデビューに至ったという。
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