アーサー・ミラーが書いた80年前の戯曲はなぜ今響くのか?
座長・川島如恵留が体現する、誰しも思い当たる空虚さとは?舞台『すべての幸運を⼿にした男』開幕
2025.11.17 19:00
2025.11.17 19:00
誰しもに刺さる、緻密で普遍的な心理描写
しかしながら……繰り返すが、1944年に書かれたとは思えない作品だ。アメリカの片田舎らしい閉塞感や、ほんの少しのバランスで崩れそうな人間関係の機微を描き出すのはアーサー・ミラー戯曲ならではという感があるが、『死と乙女』(アリエル・ドーフマン)の世界初演でローレンス・オリヴィエ賞最優秀作品賞を受賞し、イギリスの名だたる劇場で活躍を続けるリンゼイ・ポズナーの演出は、ため息が出るほど繊細で、無駄がない。俳優の一挙手一投足が、セリフの1つ1つ全てが明確に意味を持つ。非常に寓話めいた作品でありながら、観る人は皆、デイヴィッドの抱える不安感やそれにともなう振る舞い、周囲の人の行動を見て、つい自らの実生活と重ねてしまうはずだ。

この作品で描かれるのは「運命と人間の意志はどのように相互作用するのか」ということ。デヴィッドは「自分に降りかかる身に余る幸運は、どこかで不幸が起こってこそバランスが取れる」という思いにとらわれている。我が身の不幸を呪うならともかく、“幸運”に不安を覚えるなんて、と思う人はいるかもしれない。しかし、自分の手によって何かを成し遂げた対価としての幸福だと思うことができない……そんなデイヴィッドに感じられるのは自己肯定感の低さと、内面の“空虚さ”だ。それはけして、80年前の戯曲だから描かれたキャラクターではない。私たちの身の回りにもいるだろうし、何ならそれを観ている観客自身にも、思い当たるかもしれない。いやはや、名作の名作たるゆえんだ。

現実においてその空虚さを埋めてくれるのは、ときには今作の展開にもあるように“子供”かもしれないし、“さらなる成功”かもしれない。また、今作では出てこないが“神の存在”……“信仰”であることも考えられるだろう(これは推測だが、戯曲上に信仰が出てこないのはおそらく意図的なのだろうと思う)。宗教観がまだ根強いヨーロッパという場所からやってきたガスは、アメリカという土地の魅力として「幸福を自分の手で掴むことができること」だと思っているし、デイヴィッドにもそう語るが、その言葉はデイヴィッドにはなかなか届かない。その2人の対比がまた、観る人に色々なことを考えさせる。自分ははたして、“運命”にどう対峙しているのか? と。
そういう意味では、幸福に怯えるのも、不幸に抗わずただ嘆くのも、結局は同じなのかもしれない。 三幕というボリュームたっぷりの作品ながら、けして長さは感じさせないのは内容の濃密さゆえだろう。また、座長である川島如恵留が初ストレートプレイだけに、おそらく本番中にも進化を遂げていくのではないかと思う。彼の今後の活躍が、より楽しみになるような作品だ。




