今こそ“再生の物語”が能登で上演されるべき理由を考える
吉岡里帆と蓮佛美沙子の二人芝居『まつとおね』開幕、時代を超えた絆が私たちに問いかけるものとは
2025.03.06 18:00
2025.03.06 18:00
能登に暮らす人々に重なる二人の“再生”
古典と聞くと遠い世界のように感じられるかもしれないが、物語そのものは実に普遍的。関ヶ原の合戦を経て、覇権は徳川へ。一般的な作品では、秀吉の没後に巻き起こる豊臣と徳川の争いについて、おねは徳川寄りの人物として描かれることが多い。それだけに、本作におけるおねの解釈は興味深い。秀吉を弔うために建立した高台寺で、おねは徳川の世をどう見つめていたのか。ここで「憎しみの連鎖をいかに断ち切るか」という本作の主題が浮き彫りとなる。

憎しみとは、時に人を生かすエネルギーにもなる。悲劇に見舞われた人間は、その元凶を憎むことで、命の火に薪をくべることができる。だが、憎悪の薪で燃えさかる炎は、やがて別の誰かの大切なものを焼き尽くしてしまう。憎しみが生むのは、また別の憎しみだ。だから、この地球上から戦火が消えることはない。
かと言って、憎しみを完全に手放すことなどできない。虐げられた傷跡は永久に残る。大切なのは、手放すことではない。消えない燻(くすぶ)りを抱えたまま、けれど絶対に自ら燃え殻に再び火をつけまいと誓い、己を律して生きていくことだ。本作が描くのは、その強い意志と生き様である。
無理に忘れなくてもいい。相手をずっと憎んだままでもいい。それでも、自分はもう憎悪の刃を相手に向けないと誓うこと。それが「赦す」ということなのだろう。それはもしかしたら鬼の道を行くよりも、ずっと厳しく険しいことかもしれない。自分の心を過酷に痛めつけることかもしれない。けれど、その意志を保ち続ける不断の努力こそが、平和を築く礎となる。

能登もまた災害という形で大切なものを奪われた。争いのように、明確に憎悪を向けられる相手がいない分、災害で傷ついた心の再生というのはもっと困難なのかもしれない。それでも、修復作業を経て、この能登演劇堂の幕が再び上がったように、人はそれぞれの人生を生きていく。まつとおねの再生の物語が、能登演劇堂とこの街で暮らす人々に重なり、胸に熱い息吹が噴き上がる。
また、そうした「平和への祈り」という主題とは別に、女性の人生という点で見ても『まつとおね』は面白い。女性の友情はライフステージの変化による影響を受けやすい。夫に従うことが当たり前とされた戦国の世なら尚更のことだろう。まつとおねの友情も、それぞれの立場とともに色を変えていく。その変化を、中村歌昇は扉を用いた演出で暗示しているが、この演出が現代を生きる女性たちに、自らの人生を思い起こさせるような効果を果たしている。

長い人生を生きていれば、別々の扉をくぐったことによって離れた旧友の一人や二人いることだろう。かつては同じ道を仲良く歩んでいたはずなのに、いつしかその現在地すら見えなくなってしまった友。でも線と線が交差するように、己の道を一心に歩んでいけば、いつかまためぐり会う日も来るかもしれない。そのときは、空白の時間を埋めるようにたっぷりおしゃべりをして、昔話にも花を咲かせよう。それは、どんな位や勲章よりも輝かしい人生のご褒美だ。時代を一変させるような争いも、目を覆いたくなるような災害も、人の絆だけは断ち切ることができない。その強い絆こそが、憎しみよりもずっと尊い、私たちの生きるエネルギーなのだと『まつとおね』は教えてくれる。
