2025.04.15 20:00
2025.04.15 20:00
シンディ・ローパーが4月19日(土)から大阪・東京で来日公演を行なうが、日本武道館公演2デイズは完売、25日に再追加公演が決定するなど大きな話題になっている。もちろんフェアウェル(見納め)ツアーと銘打っていることも大きな理由だが、なぜ今シンディがここまで注目されるのか、いや、なぜ日本は世界中でもっともシンディを愛し続けるのか!? ここではそれを紐解いていこう。
シンディ・ローパーがシーンに登場したのはバンド、ブルーエンジェルのシンガーとしてだ。アルバム『Blue Angel』は現在再発されておりサブスクなどでも容易に聴ける。モータウンポップを下敷きにしたロカビリー、R&Bテイストのサウンドで、リリース当時はセールス的に振るわず、バンドはアルバム一枚限りで解散。当時10代だった筆者もエレポップのキラキラクイーンのシンディに首っ丈だったがゆえ、さかのぼって聴いたもののオルディーズを歌っているシンディという印象でピンと来なかった……が、後に聴いたらびっくりするほど名曲揃いだったのと、すでにシンディのヴォーカルスタイルが完成していたことに驚く。そしてシンディの魅力の一つである、どこかパンキッシュな表情なりパフォーマンスもすでに見せていて、当時は動くブルーエンジェルを観るチャンスなどなかったが、今はYouTubeでいろいろと観られるから嬉しい時代だ。なおこの不遇の時代、NYの日本食レストランでアルバイトしていたことが、親日家となる大きな契機にもなっている。
とは言え、日本でシンディが認知されたのは米国ポートレイト・レコードの契約、1983年にソロデビューを果たしてから。ポートレイトはEPICグループだったため、日本ではEPICソニーからのリリースとなり、シンディはマイケル・ジャクソンやワム!、ノーランズなどとともに、EPICソニー洋楽を代表するシンガーとなる。“女の子だって自由に楽しみたいの”と歌う「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」は全世界でヒット。当時の邦題は「ハイ・スクールはダンステリア」で、実は歌詞の内容とは関係ないイメージ先行のものだったが、たしかに楽曲のムードにはぴったりではある。ロバート・ハザートの原曲にシンディが歌詞に手を入れているが、独立した女性像、その讃歌を描いたテイストになったことも、女性ファンが支持した理由。近年ではTikTok筆頭とするショート動画の音楽で、イントロの名フレーズが利用されているのをよく観るので、シンディの楽曲と知らずに耳にしている若い人も多いだろう。
「ハイ・スクールはダンステリア」のヒットが契機となり、デビューアルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』も日本題は『ハイ・スクールはダンステリア』だった。正直、アラフィフまでは原題を知らずに邦題で憶えている人が多いはず。第二弾シングルはシンディとロブ・ハイマン(ザ・フーターズのヴォーカル、キーボーディスト)の共作による名バラード「タイム・アフター・タイム」(1984)で、全米ナンバー1を獲りこれがシンディのシンガーとしての人気を決定づけた。名盤1stアルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』ではバラエティに富んだ楽曲を、様々な声色やヴォーカル・アプローチで歌い分けている。シンディ自身のカラフルでポップなキャラクターにも憧れた女性は多いはずだ。独特のカラフルさは当時カルチャー・クラブのボーイ・ジョージに通じるところもあり、シンディもまさに80年代シーンのシンボルと言える。世はまだ“聖子ちゃんカット”の時代で、今のように髪色を派手にできる風潮ではなく、例えば“ピンクヘアの解禁”は90年中頃、hide(X JAPANA)がお茶の間に認知されるまで待たなくてはならなかった。
後に篠原ともえが登場した際のシノラー・ファッションにもシンディの系譜を感じたものだが、当時は憧れていてもシンディのコスプレ(という言葉は当時なかったけれど……)を実際したら間違いなく不良少女呼ばわりだったし勇気を要した。なおシンディとは異なるセクシーなキャラクターで人気を確立したのがマドンナ。日本でいう松田聖子と中森明菜のように何かとライバル関係的にメディアで扱われてきたが、80年代国内シーンにおいては、シンディよりマドンナのセクシーな衣装に目を向けた女性シンガーが多かった印象。なお、『シーズ・ソー・アンユージュアル』はグラミーの最優秀アルバム・パッケージ賞受賞。時代に乗ったインパクトはあった。
その後、映画『グーニーズ』の主題歌だった「グーニーズはグッド・イナフ」(1985)も映画とともにヒットしたが、その先に待ち受けていたのが歴史的名曲の「トゥルー・カラーズ」(1986)。“私にはトゥルー•カラーズが見える それはあなたの中から輝いているもの それがあなたを愛する理由だから 見せることを恐れないで トゥルー•カラーズはとても美しくて まるで虹のよう……”と、シンディがハスキーヴォイスも加味して歌い上げたこのメッセージは、当時の10代、20代の胸に突き刺さった! 肌の色やジェンダー差別、同性愛への偏見などから迫害を受けている世界中のマイノリティを奮い立たせたし、それこそ虹のようなカラフルさ、多様性を肯定した自由の讃歌には、シンディ自身のキャラクターもまんま投影されていたと言っていい。続く「チェンジ・オブ・ハート」、マーヴィン・ゲイ「ホワッツ・ゴーイン・オン」のカヴァーも話題となり2ndアルバムも大ヒット。同名アルバムとしても『トゥルー・カラーズ』は相当聴き込んだ。グラミーの最優秀ポップアルバムも受賞し、初期2枚は80年代を代表する名盤と言って間違いない。なお1986年には初の日本武道館、大阪城ホール公演を含む『トゥルー・カラーズ』ツアーを開催している。

さて絶好調の時期だっただけに1988年公開の映画『ハイブス秘宝の謎』で主演女優としても脚光を浴びたが、ここでシンディはプライベートのゴタゴタもあり躓いてしまう……いわば宝探しの冒険活劇だったのだが……映画の興行成績はイマイチに終わる。しかも注目されていた3rdアルバムは難産となった。ようやく1989年に出たのが、ラブソングに重きを置いた『ア・ナイト・トゥ・リメンバー』。シンディなりにロックテイストを押し出した部分は正直精彩を欠いていたように感じたが、「マイ・ファースト・ナイト・ウィズアウト・ユー」「へディング・ウェスト」などのバラードは相変わらず絶品。1990年末にはNHK紅白歌合戦のために来日、和服衣装で「涙のオールナイト・ドライヴ」(※ちなみにロイ・オービソンの未発表曲だった)を披露している。米国でのセールスは今ひとつだったが、日本のファンはそんなシンディを支持した。俳優のデヴィッド・ソーントンと結婚したのはその翌年になる。
1993年の『ハート・フル・オブ・スターズ』は、シンディのメッセージ性をより押し出した内容となった。ゴスペルとヒップホップ、さらにワールドミュージックテイストが融合した「ア・パート・ヘイト」が新境地だったが、すでに制作されていたものの本国のレコード会社側により収録が見合わせられていた事実も明らかになる。なお「ア・パート・ヘイト(A Part Hate)」は南アフリカ共和国で当時敷かれていた人種差別制度、アパルトヘイト(Apartheid)がテーマ。「トゥルー・カラーズ」を歌っていたシンディが、“ア・パート・ヘイトで愛の色がどこかに失われていく”と歌うのだから鮮烈であった。こうした人種差別問題は残念ながら今も世界各国で起こっている……シンディは2019年に「ア・パート・ヘイト」のリリックビデオを自身のYouTubeチャンネルで公開。一方で「サリーズ・ピジョンズ」は自身の友人の事実をもとに妊娠中絶をテーマに歌いあげたが、2022年には連邦最高裁の米国女性の中絶が制限される判決に対して、ニューバージョンも発表している。
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