2025.12.05 18:00
2025.12.05 18:00
バブリーダンスは今でも私の誇りです
──ちなみに今は取材なので標準語でお話しになっていますが、YouTubeとかを観ると普段は大阪弁なんですね。やっぱり大阪人というアイデンティティは大きいですか。
大きいと思います。相手が標準語だと合わせられるのですが、標準語と大阪弁ってちょっとリズムが合わなくて、自分の中でノッキングが起きるときがあって。あと、標準語と大阪弁のときでちょっと性格が変わるんですよね。

──自分も大阪人なのでわかります。大阪弁のときはちょっと雑になりますね。
そうなんです。なので、特に家族と大阪弁で話すときは無意識に甘えられるというか。甘えられるからこそ、ちょっと雑なところも許されるのが家族。そこはすごく助けられています。
──つい大阪人マインドが出てしまうときはありますか。
関西の人が活躍していたり、大阪からすごい人が出てきたというニュースを見たときは、ちょっと自分まで誇らしい気持ちになりますね(笑)。
──東京のたこ焼きにいちゃもんをつけたくなったりは?
まったくないです。基本的にLOVE&PEACEなので(笑)。中には、東京のたこ焼きは揚げたこ焼きだとおっしゃる大阪の方もいるじゃないですか。私は全然こだわりがないタイプなので、なんでもいい。むしろ東京でもたこ焼きを食べてくれてありがとうという気持ちです。
──横田さんは高校時代も甲子園目指して野球に打ち込んでいたわけですが、伊原さんといえば高校のダンス部でのご活躍が有名です。何かに打ち込んだ経験が今の自分を支えてくれていると思うことはありますか。
めちゃくちゃあります。人生でいちばんというくらいの挫折も、夢みたいなことも経験して。人生の波をギュッと凝縮したのが、私にとって高校3年間。そこで鍛えられた経験値は大きいですし、今でもお芝居をするときに高校時代に経験したことが使えるなと思うことはあります。

──部活でいちばんキツかったことはなんですか。
3年のときにキャプテンをやらせてもらったのですが、それまで大会(日本高校ダンス部選手権)で2連覇していたんです。でも、私の代では準優勝で……。そのときの何もなくなった感はキツかったですね。
──バブリーダンスが大きな注目を集めましたが、実は大会の結果は準優勝だったんですよね。部員のみなさんにとっては悔しかったですか。
私は悔しかったです。先輩方が今まで積み上げてきたものに泥を塗ったような気持ちでした。キャプテンである以上、責任は私にある。申し訳なさを感じていたし、高校生活のすべてが終わったなって。今思えば準優勝という結果も素晴らしいことなのですが、当時はそう思えるだけの余裕がなく。何もなくなった、というのがいちばん正直な気持ちでした。
──でもそんなバブリーダンスが日本中を揺るがす大ブームとなりました。
私たちの作品を素晴らしいと言ってくださる人がいて、どんどん世の中に広まっていって。勝敗という意味では負けてしまったけれど、いいものはいいと言ってくれる人がいる、面白いものは面白いもので見つけてくれる人がいるんだなと。そこに、当時の私は救われていました。

──と言いながらなんですけど、もう8年も前のことをこうしていつまでも聞いてしまうのは失礼なのかなと思ってしまう気持ちもあって。バブリーダンスとの距離感って、今、伊原さんの中ではどんな感じでしょうか。
私にとっては誇りですし、こうして聞いてくださるのはうれしいです。確かにこの仕事を始めたての頃は、早く結果を残して、バブリーダンスの子ではなく、一人の女優として見てもらえるようになることにこだわっていた気はします。
でも、バブリーダンスから私を知ってくださった方が多いのは事実。そこを変に上書きする必要はないなって。何よりこうしてお仕事を続けていくうちに、最近では逆に「伊原六花ってバブリーダンスの子だったんだ」と後から知るパターンも増えてきたみたいで。そういうこともあって、バブリーダンスのイメージから離れたいみたいな気持ちはなくなりました。むしろバブリーダンスの子だって言われたら「そうなんです! そうなんです!」ってなります(笑)。
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