ヒップホップで社会を生き抜く! 第2回
アンダーソン・パークの人生から学ぶ「ハッスル精神」〜ホームレスから世界的スーパースターへ〜
2022.07.21 13:00
Anderson .Paak & The Free Nationals: NPR Music Tiny Desk Concert
2022.07.21 13:00
2021年11月にブルーノ・マーズとのユニット、Silk Sonicとしてアルバム『An Evening With Silk Sonic』をリリースしたAnderson .Paak(アンダーソン・パーク)。シングル「Leave The Door Open」は全米ナンバーワンヒットを記録し、2022年6月に行われたBTS「Proof」のロケでゲスト出演したことも話題になっている。
現在36歳のカリフォルニア州オックスナード出身のラッパー/シンガー/ドラマー/プロデューサーのアンダーソン・パークであるが、彼の人生からは絶対に夢を諦めない「ハッスル精神」を学ぶことができる。
アンダーソン・パークは、2016年にドクター・ドレーのレーベル<Aftermath Entertainment>と契約し、2018年にアルバム『Oxnard』、2019年に『Ventura』をリリースしている。しかしヒップホップファンの間では、ドクター・ドレーの2015年のアルバム『Compton』でアンダーソン・パークの存在を知った方も多いだろう。アンダーソン・パークは、『Compton』にて 6曲もフィーチャリングされ、アルバム内で最もフィーチャリングされたアーティストとなった。そんな彼がどのようにしてカムアップしたのかを紹介したい。
10代のときに教会でドラムをはじめたアンダーソン・パーク。音楽活動を本格化する前はカリフォリニア州サンタ・バーバラにあるマリファナ農園で働いていたが、突然の解雇により、妻と生まれたばかりの息子と共にホームレスになってしまった。当時25歳の彼は、Breezy LoveJoyという名義で活動していた。家族がいる状態で仕事を失ってしまった彼は、音楽活動にフォーカスすることを決断したと語っている。
厳しい状況に陥ってしまったアンダーソン・パークであるが、彼のキャリア初期において大きな存在となったのが、ロサンゼルスのコリアタウン出身の韓国系ラッパーであるDumbdfoundeadであった。アンダーソン・パークは、バトルラッパーとして人気であったDumbfoundeadとコリアタウンで出会い、共に音楽活動をすることになる。アンダーソン・パークは「Dumbfoundeadは、最初に俺を信じてくれた人だ。息子も家族もいる状態で、スタジオ機材も、車も、何も持っていなかったとき、彼はコリアタウンのキングとして俺を迎え入れてくれた。ツアーにも連れて行ってくれたし、インディペンデントアーティストとして活動する方法も教えてくれた」と語っている。
音楽制作のためのスタジオや機材を持っていなかったアンダーソン・パークは、Dumbfoundeadに家の鍵をもらい、制作をするために毎朝自転車で彼の家に通ったと明かしている。Dumbfoundeadは、そのときのアンダーソン・パークの状況について、このように語っている。
今世界中の人たちが聴いているアンダーソン・パークの曲が当時制作されていて、朝起きたら流れているんだ。持っている機材が良い音楽を作るのではない。10万枚とか売れたアンダーソン・パークの曲も、うちの小さな部屋で作った。
アンダーソン・パークは、税金や光熱費を払うのに苦労しており、「お金を貸してほしい」と言ってくるときもあったが、精神は前を向いていた。
アンダーソン・パークは、Dumbfoundeadと共にツアーを回ることで生活費を稼ぎ、その間は家族がDumbfoundeadのスタジオに泊まることもあったという。当時について、アンダーソン・パークは「ツアーをする度に、ライブが成長していくのがわかったし、一人ひとりファンがついているのが見えた。今はお金を稼いでいないけど、絶対に回収できると信じていた」と語っている。
アンダーソン・パークは、2012年にステージネームをBreezy LoveJoyから、「音楽中心の生活となるターニングポイント」になるように本名のAnderson .Paakに改名したとインタビューで語っている。その決断には息子の存在があったと言う。「息子が生まれたとき、自分以外のことを考え始めるようになった。息子にとってもいいロールモデルになりたかった。ただ座ってるだけではいけないと思って、アーティスト活動にさらに本気になった。」
アンダーソン・パークは、後のヒット作『Malibu』の制作も、Dumbfoundeadの家で、凹んだ安いマイクでレコーディングしたと明かしている。2014年には、アンダーソン・パークとしての1st アルバム「Venice」を発表し、自身のスタイルを確立した。
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