2025.12.24 17:30
2025.12.24 17:30
暗い10代を救ったのが韓国アイドルでした
──では、ここからは咲耶さんの人となりを聞いていきたいと思います。話し方からも文化的教養の高さを感じますが、咲耶さんのカルチャー的なバックボーンについて教えてください。
私、好きなものがたくさんあるんです。映画だったら、そうですね、ちょっとホラー寄りの、人からは気持ち悪く見られがちな洋画が好きです。邦画なら、それこそ鈴木清順監督の浪漫三部作(『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』『夢二』)だったり。全体的に暗いものが好きです。
音楽も同じですね。役者を始める前、ディープテクノのDJをやっていたんですよ。1990年代から2000年代にかけての日本やイギリスのロックって暗くて。レディオヘッドにポーティスヘッド。日本のバンドでいえば、今は全然活動していないんですけど、54-71。そういうものを好んで聞いていました。

──暗いものが好きなのは、どうしてなんでしょう。
落ち着くんです。メジャーなものや光り輝いているものを見ると眩しくて目が潰れそうになる。自分が光の人間ではないことを自覚しているからこそ、惨めな気持ちになります。
──そもそも10代の頃はどういう大人になりたいと思い描いていたのでしょう。
私の10代はとても暗くて。学校が好きじゃなかったんです。
学校という環境そのものが苦手で。蛍光灯の白い灯りも、教室という小さな箱の中に何十人もの人間が押し込められている状態も、全部が苦手でした。休み時間になると、みんながバラバラにしゃべるじゃないですか。そこかしこでみんなが違うことを話しているのが、私には雑音に聞こえてしまって、すごく苦しかった。
正直、私にとって学校は友達をつくりづらい場所でした。受験をして、中高一貫の学校に入学したんですけど、入学した瞬間からみんな両親のことを知っていて(父は俳優の吹越満)、他のクラスの生徒たちが代わる代わる教室まで見にくる。予想はしていたし、昔からそんなことは当たり前のようにあったけど、個人として対等に見てもらえない絶望は正直大きかったです。
だから、自分が大人になった姿を想像する余裕もなかったというか。そういう思考から逃げているようなところがありました。音楽に傾倒したのも、内省のほうに意識が向いたからだと思います。

──学校では友達をつくりづらかったということは、どこか他のコミュニティで居場所を見つけられたんですか。
そうですね。私は小学生の頃から韓国のアイドルが好きだったんです。だから、そのコミュニティで友達をつくることができました。今でも仲がいい、10年以上交流が続いている親友と呼べる友達も、ネット上でのファンコミュニティがベースになっています。
SNS経由だと、お互い最初は素性を何も知らない。自分の親や生い立ちについて何も話さなくても、好きなことについてしゃべればよかった。それが私にはとても貴重で心地良くて、親というフィルターを介さず自分のことを見てくれる人たちと出会えたことで、楽しい時間を過ごすことができました。
──ちなみに韓国アイドルは誰を推していたんですか。
当時はSUPER JUNIORが好きでした。そこから転々として、今はNCTを推しています。NCTは結構癖が強い曲が多いんですよ。そこが好きで。あとはやっぱり学校という場所に閉塞感を抱いていた分、アイドルに対して偶像崇拝のような気持ちもあったと思います。韓国のHIPHOPシーンも好きでした。当時は、R&Bに寄ってる感じだったんですよね。素敵な曲が多くて、よく聴いていました。

──強い生きづらさを抱えて生きてきた咲耶さんが、表現することに興味を持ちはじめたのは何がきっかけだったんでしょう。
表現を生業にしている家族が身近にいた分、具体的にいつからというのがわからないくらい、ごく自然に表現することに関心は寄せていました。ある種、私にとってはそれが当たり前だったんです。ただ、女優をやることは両親からずっと反対されていて。だから、やりたいとは思っていたけど、反対されるのがわかっていたから、自分から口に出すこともありませんでした。
なんなら母は私を作家にさせたがっていました。もうすでにご想像の通りだと思いますが、中高生の私はかなり性格がひねくれていたんです(笑)。で、変な作文ばかり書いていたんですけど、どうやら私の作文が職員室で先生方に回し読みをされていることを聞きつけまして。しかも、文豪というあだ名までつけられていたみたいなんです(笑)。その話を母が面白がって、役者じゃなく作家になりなさいってずっと言われていました。

──プロフィールの「特技:文豪」はそういうことなんですね(笑)。
そうなんです。プロフィールは母がつくりました(笑)。
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