『若き見知らぬ者たち』役作りの裏側、日本映画への夢を語る
「この経験を積むことが大事だった」岸井ゆきのが終わりのない痛みと向き合った3週間
2024.10.16 18:00
2024.10.16 18:00
私は意味を付け直すことで自分を守ってきた
──「がんばって見逃してきた気持ち」とはつまり、自分の心を防衛するためじゃないですか。岸井さんはそういう気持ちを見逃すことで、自分の心の安寧を保っていたということでしょうか?
そうですね。少し意味を付け直してみたりすることでなんとか肯定してきた部分に対して、「本当にそうだったのだろうか?」と思い返してみると、(日向に近い心理状態が)私のなかにもあると思った。日向は絶対に傷ついてるはずだし、不安もあるんだけど、その傷に手を当てる時間もないんですよね。私の生活よりもずっと目まぐるしくて、とにかく目の前のことを一生懸命やって、自分が我慢するということを繰り返してる。でも、そのなかになんとか景色としての美しさをがんばって探してるような気がするんです。彩人を送り出すシーン……あれは風間家の美術がすごく作り込まれているんですね。
──家庭特有の匂いや、あそこで生活している人の体臭がこちらの鼻にもまとわりついてきそうなあの生活感はなかなか出せないですよね。
はい。すごかったです。お母さんが暴れた痕跡のあるキッチン。日向がスーパーで買ってきたものをそこに置く。画としては全然映ってないんですが、キッチンの流しにあるお茶碗とかに水が溜まっていて、その光が反射してきたんです。それをすごく美しく感じた。私自身は今までがんばって「美しい」とか「楽しい」という言葉で意味を付け直すことで、その形容詞に守られてきたんだなと思ったんです。でも、日向の気持ちに直面したときにその言葉が自分を裏切るというか。「ああ、この美しさには意味がないんだ」と思ってしまった。
──なるほど。
そのときにすごくしんどくなって。でも、これが日向の生活で、それでも何か一縷の光を探してるんだと思ったら、たまらない気持ちになりました。「本当にいっぱいいっぱいなんだ、日向は」って。
──本作に流れている抗えない重みが充満している空気として、家庭の貧困や社会の閉塞感から抜け出せない若者の切り取っている点、あるいは格闘技という肉体と肉体をぶつけ合う描写を通して人間の生命力という塊を映し出しているという点においても、『ケイコ 目を澄ませて』との同時代性であり、共時性を感じる部分もありました。だからこそ、本作に岸井ゆきのが存在していることで高まる説得力があると思うのですが、そのあたりでご自身が感じていることはありますか?
風間壮平役の福山翔大さんは1年かけて身体をつくって格闘技と向き合っていたんですね。私も『ケイコ』で増量したり肉体改造をした経験でそのつらさを知っているので。私は、福山さんが撮了したときにどんな気持ちになるかなんとなく想像できたんです。福山さんにとって私の存在はすごく力になったとご本人からも言われました。「誰も言わない言葉をかけてくれる」って。日向も格闘技とずっと向き合ってる壮平を応援している部分で重なるところもあって。
──何も言わなくてもブロッコリーとささみ肉とゆで卵を用意したり。
そう。そういう部分で重なるところはありましたね。自分が通ってきた道に背中を押して送り出すというか。そこに関してはなんも疑問もなく。
──社長さんが、岸井ゆきのが助演として本作にどのように貢献するかが俳優人生においての大きな経験になるおっしゃったことも含めて、『ケイコ』を経てのこの作品に連綿と繋がっている部分もあるのではないかと思います。
私も『ケイコ』後の最初の映画がこの作品であることにしっくりきましたね。それに、そもそもこの作品の現場では日向なのか自分なのかわからなくなる瞬間がかなりあったので。普段はあまりやらないのですが、先ほど言ったように今回の作品に関しては映ってない時間を大切にしたいと思って。いつもは私生活と俳優の仕事は分けて考えたいタイプなのですが、日向でずっといることができるか、今回はやってみようと思ったんですよね。撮影期間の3週間くらい。
──相当しんどかったでしょう。
すっごくしんどかったです。急にカメラの前で日向の顔になれないんですよ。それはできないと思った。たとえば、もしかしたら彼女は昨日泣いてたかもしれない、という顔をする。そのアプローチに関してはいろんな方法があるのかもしれないけど、私には日向でいることはそのやり方でしか到達できなかった。でも、それをやってみたいと思った。本当にしんどかったんですけど。
──『ケイコ』のときはそういう向き合い方ではなかった?
『ケイコ』のときはもっともっとやることがあったので。撮影中にずっとボクシングに取り組んでいましたし。もちろん、心も肉体も全部あれはケイコだったと思うのですが、頭で考えるよりも「ここから撮影のセッティングで30分かります。じゃあ縄跳びやりましょう」みたいな、もっともっと肉体と自分の会話という部分が大きかったんです。
──ずっと肉体と会話してるから、カメラの前にすぐに行けるという部分もあったんでしょうね。
そうなんです。ボクシングの練習によって発散もできるし、発散しながら気持ちもボクサーでありケイコになっていくという。でも、今作はもっと「心って肉体よりも痛むんだ」という役で。そこに終わりがないんですよね。縄跳びは100回に設定したら、100回やれば終わるんですけど。
──心に課すことは数値化できない。
そう、数値化できない。だから、どこまでも落ちていけてしまうというか。ケイコは肉体の変化とともに自分の顔が変わっていったのですが、今作は「日向とずっと向き合うことでどんな顔になるんだろう?」と思って。内山監督には「とにかくたしかにある感情が溢れないように我慢してくれ」って言われていたから、「我慢できないよ」ってなって撮影前に一回泣いて、カットがかかった瞬間に「もう、無理」って何回もなって。自分がちょっとトンと押されたらすぐ崩れてしまう砂の城のような気持ちになって。人には絶対にお勧めしないやり方だなと思いました。
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