芸人結成物語 by やついいちろう 第2回
三四郎(小宮浩信&相田周二)後編──挫折、大泣きを経て確立した今のスタイル
2022.09.15 17:00
2022.09.15 17:00
養成所時代に味わった挫折
やつい 明確に「三四郎」って名前になったのはいつ頃?
小宮 養成所のときにふたりでやったときにはもう三四郎でした。さっき写真を撮った蚕糸の森(さんしのもり)公園から取った名前なんですよね。原点を忘れないって意味で。
相田 あとは「ん」がつくコンビが売れるとか、漢字が流行ってたりとか。
やつい 養成所時代はどうだったの?
小宮 僕ら養成所の中でも成績はトップの方だったんですけど、トップの3組選抜でNSCとの対抗戦があって。NSCの同期がオリエンタルラジオ、はんにゃ、フルーツポンチとかで。
やつい いきなりテレビ出てる人達だ。
小宮 そうなんですよ。それでレベルの差を痛感して、養成所を辞めました。
やつい 辞めたの?(笑)
小宮 井の中の蛙というか、この中だけでやってても勝てないなと思って。それでツッコミとボケを変えたり、一回解散しようかと思ってました。お笑いも辞めようと思ったこともありました。そのタイミングでもう一人入れて「次男坊」ってトリオで活動しようと思って養成所に話したらプロデューサーハウスあ・うんを紹介されて所属しました。
やつい あ・うんに行ったの?高校時代からの癖なの?クラブを渡り歩いたりするの。
小宮 (笑) そうですね。
相田 ただあ・うんは2年くらいで辞めちゃって。それで別の事務所を探したんですけど、オーディションをやってるところが中々なくて。
やつい 学校から入るしかないパターンになってたよね。
相田 そうですね。それでマセキのオーディションライブから出てみようかってなりましたね。
やつい それも次男坊で?
相田 いや、もう一人はあ・うんを辞めるときに一緒に抜けてます。その子はNSCに行きました。主席で卒業してます。
小宮 そいつ芸歴6年あったの隠して入学してるんですけど、それがバレて非難轟々でした。
相田 大阪NSCの主席との対決で代表をやったらしいんですけど、やけに舞台慣れしてるなって(笑)。
小宮 「1年目なのに緊張しないよなぁ、あいつ」って(笑)。
やつい そしたらもう三四郎としてマセキにいきなり所属したの?
相田 そうですね。僕らやルシファー吉岡、モグライダーが預かりみたいになった感じですね。ラッキーなことに漫才師もあまりいなくて、優先的にオーディションにまわしてくれたりしてて、タイミングもよかったですね。
やつい そうだよね、マセキはコントのイメージが強いもんね。ナイツくらい?
相田 そうなんですよ。マセキに入ってよかったですね。
やつい 辞めようと思ったのによく続けたね。
小宮 そうですね。
相田 辞めようと思ってたの1週間くらいですよ。
やつい ほんとは思ってないんじゃないの?(笑)
小宮 いや、ほんとにオリエンタルラジオが凄まじすぎて……。
相田 めちゃくちゃ泣いてましたよ、渋谷のマックで。
やつい それは悔しくて?
小宮 悔しくてですね。
やつい そうだよね。大学も行かないで1年バイトしてお金も貯めてるんだもんね。
小宮 あと、圧倒的に一番だと思ってたので、僕らが。JCAのとき、こんなに成績がいいのはドランクドラゴンぶりだって。
相田 チャラ男の慶さんが言ってました。
小宮 これで絶対売れると思ってたんですけど、他のところ見たらすごい人ばかりで。オリエンタルラジオが面白いのはまだしも、打ち上げでNSCの舞台に立ってない人とも話したんですけどみんな面白くて「こいつらも面白いのかよ」と。
やつい 相田君もそれは思ってたの?
相田 思いましたね。オリエンタルラジオは完成されてたんで。でも、リズムネタだしとっつきやすい芸風だから、って自分に言い聞かせてました。こっちは漫才だしって。
やつい でもパッと振り返ったら相方泣いてたんでしょ?
相田 泣きながら「解散しよう」って(笑)。
(一同爆笑)
相田 でもそのとき僕もめちゃくちゃムカついちゃって。「だったら最初から誘うなよ」って(笑)。泣いてる小宮置いてマック出て行きました。それで1週間後くらいに小宮から電話があって、またやろうって。
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