80年以上前の作品が照らす、現代人が抱える矛盾と孤独とは
笑いの奥に潜む孤独と哀愁、稲垣吾郎が“スターの業”を体現する『プレゼント・ラフター』開幕
2026.02.10 19:00
2026.02.10 19:00
スターは、いつだって孤独だ。華やかな舞台の上で、誰かの期待に応え、誰かの理想を演じ続ける。でも、仮面を外したとき、本当の自分は一体どこにいるのだろう──。
20世紀英国を代表する劇作家ノエル・カワードによる半自伝的戯曲であり傑作コメディとして名高い『プレゼント・ラフター』が、稲垣吾郎主演で2月7日(土)に東京・PARCO劇場にて開幕。初日前に実施された会見及びゲネプロ公演第1幕の模様をレポートする。

『プレゼント・ラフター』は劇作、俳優、作詞、作曲、映画監督と多彩な才能を発揮したマルチアーティスト、ノエル・カワードが自らを重ねあわせながら描いた大人のラブコメディ。世界大戦下の時代を生きながらも、「人生はうわべだけのパーティー」を信条に、軽やかでおしゃれでウィットに富んだ作品を生み出してきた彼の作品を、演出・小山ゆうな×主演・稲垣吾郎の初タッグにて描き出す。共演には倉科カナをはじめ、黒谷友香、広岡由里子、浜田信也、桑原裕子らが名を連ねた。
主人公は人知れず孤独と老いへの恐怖を抱える大スター俳優ギャリー(稲垣吾郎)。舞台は1930年代のイギリス。ギャリーのもとを訪れる個性豊かな人々が持ち込んでくる騒動に翻弄されていくギャリーの姿を描くワンシチュエーション・コメディだ。

舞台上のギャリーは、自宅でオフの時間を過ごしているにも関わらず、その周りには常に他人の姿がある。ほぼ元妻で今はビジネスパートナーであるリズ(倉科カナ)に、秘書のモニカ(桑原裕子)、演劇プロデューサーのヘンリー(金子岳憲)、マネージャーのモリス(浜田信也)といった仕事上の欠かせない仲間でありよき理解者たちに、彼の身の回りの世話をする付き人兼使用人のフレッド(中谷優心)、家政婦のミス・エリクソン(広岡由里子)。そこに、スターとしてのギャリーに強烈な関心と愛情と、ときには執着を持って近づくのが、女優志望のダフネ(白河れい)に脚本家志望のローランド(望月歩)、そしてヘンリーの妻であるジョアンナ(黒谷友香)だ。

私生活でも、大スターゆえに相手が望む自分の姿を演じてしまうギャリー。そんなギャリーに対し、数十年来の仲であるリズやモニカは「いい加減大人になって」と諭す。そうかと思えば、面倒事を避けようとしたギャリーの言動が、もっと面倒な事態を呼び寄せてしまい……。ある意味、本当の自分がわからない迷子のような状態になりながら、ギャリーは怒涛の会話劇の森で彷徨うこととなる。スターでありながら孤独で、大人でありながら子供っぽい。そんな矛盾だらけのギャリーから、一瞬たりとも目が離せない。
稲垣吾郎の“パブリックイメージ”と素顔の境界線は?
舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』でハリー・ポッター役を演じた稲垣吾郎が、今度はスター俳優ギャリーへと華麗なる転身を遂げた。会見では「まさに僕そのもの、僕にぴったり」と語った稲垣。たしかにスターとしての華々しい経歴を持ちながらも、何年経っても私生活の見えないミステリアスな存在感とカリスマ性は、人々を惹きつけずにはいられないギャリーと重なる。
しかし、ギャリーは喜怒哀楽が激しく、愛されたがりの愛され下手といった印象の人物。穏やかな人柄の稲垣とはかなりギャップがあった。この稲垣本人から滲み出るスター性と、その延長線上に新たに構築されたギャリー像との曖昧な境界線が面白い。

稲垣自身も実はとてもチャーミングな人。会見では「生まれ変わったら倉科カナになりたい」と語ったり、「MBTIは擁護者(ISFJ)です」とニコニコ明かしたり。ひと笑い起きると、「(報道で)いい感じに使ってくださいね(笑)」とこぼすなど、取材陣が望む受け答えをしてくれる。“パブリックイメージの稲垣吾郎”をしっかり持っている人、といった印象が強い。
それはギャリーとの親和性にもつながっている。「演じること」を生業とする俳優が、「演じること」に疲れた俳優を演じる——この入れ子構造が、稲垣だからこそ説得力を持つ。天才ソムリエや暴君といった虚構の役柄を超え、今作では稲垣自身の影がギャリーに重なり、虚実が溶け合う不思議な感覚を観客にもたらしている。

稲垣は「この年齢になったからできる役」とも言っていた。周りから年相応な振る舞いをするよう言われても、ギャリーはそれができない。どうしても年齢のサバを読んでしまったり、老いを知る前のように振る舞ってしまったり。そうではあるが、やはり、ほんの一瞬、年相応の哀愁が漂う場面がある。
第1幕は怒涛のセリフ量と賑やかさが占めるので、その表情が見られる瞬間はそう多くないが、その一瞬、これが仮面を被っていないギャリーなのかもしれない、と思わせてくれる。ギャリーの周りの人々が素顔のギャリーに触れられないように、観客もまた、どれが本物のギャリーなのかが分からない。喜劇として笑える作品だからこそ、その隙間にふと顔を出す影が、かえって色濃く映った。ギャリーの孤独は、きっと私たちの孤独でもある。笑いながら、どこか胸が痛む。そんな不思議な余韻を残す作品だ。
次のページ
